トップページ日記2018-08-31 > 謝辞

ただ美しさだけがそこに貼りついている

沖縄に移住して8年目になる。なぜ住みつづけているのですか? と訊ねられた場合、いろいろと複雑な事情があることはとりあえず伏せて、「沖縄で飲む泡盛は最高だから」「花粉症だから(沖縄には杉がない)」「ウチナーンチュにはいい女が多い」なとど適当なことを答えるわけですが、「色が綺麗だから」という理由もある。

空や海ももちろんそうだが、太陽の光が強いので、植物の色がすごい。緑と赤がとくに映える。浅草の軒下で咲いているあさがおやあじさいとは生命力が違う感じで、見ているだけでパワーをもらえる。光が強いということは影もまた濃いわけで、メタファーではなく、黒色に対する感受性が東京にいたときとはあきらかに変化したような気がする。

中原亜梨沙さんの描く女性は南国美人だ。

顔に強い光があたっている。あたってなお、くっきりと美人なところが沖縄を感じさせる。陰翳礼賛を金科玉条にしているような美人画とは、あきらかに生命力が違う。
そういう絵は見たことがなかったので驚いた。
とはいえ、中原さんの絵に最初に惹かれたのは表情だ。
たしかに知っているはずなのに、絵画ではあまりお目にかかれない、途轍もなくチャーミングな表情をしていた。

『ジェラシー』の挿画を見てまず思ったのは、その表情がないことだった(もちろん、無表情も表情のひとつではあるのだが……)。
さらに、服などに使っているレトロな柄のモチーフもなく、女性の顔とパンジーの花があるだけ……。

ただごとではない感じがした。言ってみれば、画家にとっての見せ場をいくつも禁欲しているわけだから。
しかし、中原さんのキャリアはそもそも禁欲の連続だった。画集を見るとすぐにわかるけれど、タブローから逃走をはかろうとしていろいろなものを捨てつづけている。タブローでないなら、いったいなにを描こうとしているのか? 学のない僕にはうまく説明できないけれど、中原さんの絵を見て最初に思ったのは、シールにしたい、ということだった。友達の家の新築祝いに行って、白い壁に貼りまくってやりたかった。額装された絵画を贈るのではなく……。

タブローではなく、もちろんイラストレーションでもない、壁にペタッと貼ったら似合いそうな絵。背景が透明なフィルム製もいいが、安っぽい紙製のシールも素敵だ。日焼けしたり、子供が悪戯して剥がそうとした跡があったり、そういう経年劣化に平然と耐え得るであろう生命力を宿した絵。

シールにして友達の家に貼ることはできなかったけれど、中原さんの絵が印刷所の輪転機で大量に刷られているところを想像すると、たまらなく気持ちがよかった。中原さんの絵は、額の中に収まっているだけではもったいない。将来的には絶対、世界的ハイブランドのバッグに刷られるくらいになってほしい。

書籍のカバーには帯というものがついていて、その見本で、黒とか白とかピンクとか、デザインの試作が送られてくるのだが、それを見てゾッとした。帯色が変わるたびに、描かれた女性の表情が違って見えたからだ。それはもう、本当に、僕が小説の中で書いたセックス・アンドロイド〈オンリー〉そのものだった。人間ではないが、人形でもない。信仰ではなく、欲望に依る仏画のようなものだろうか?

ツイッターで「最近は女性の顔よりも、まわりの花に感情移入して描くことが多い」というような記述を読んだとき、なにかがシンクロしているのを感じたりもした。中原さんの絵に登場するのは決まってひとりぼっちの女性だけど、にもかかわらず「関係」を描いているのだと確信した。関係とは内面である。内面のない女性が美しいわけがない。

小説の挿画を描く人には内容を吟味しないで筆を取る向きも少なくないけれど、中原さんはゲラを読んだうえで、(さして得になるとも思えない)この仕事を引き受けてくれた。もう感謝しかありません。本当にありがとうございます。

カテゴリー: [日記] - 00:04:20

ページ管理者:草凪 優
イラスト:小玉 英章